目次はじめに T.何故今永く愛される建物か U.永く愛されるとは V.永く愛されるために W.永く愛される建物を作る為に(提言) X.100年後の街並み Y.200年住宅を注文する エピソード
トピックス『ニューアンドクラフツ』 トピックス『建設環境コーディネーター』 トピックス 『土地問題と永く愛される建物』 トピックス『NPOと永く愛される建物』 トピックス『日本民家に学び直す』 永く愛される建物 『まとめ」 トピックス ニュー・アーツアンドクラフツヘ 職人の技が死滅しようとしている。建具屋、経師屋、指物師、畳屋、左官屋、大工等言葉や職種は残っているが大半は、似て非なるものである。何故その様になったか。これは20世紀というものを考える重要なポイントである。19世紀の日本は江戸時代の末期である。鎖国も崩れ始めるが、まだまだ日本が日本独特の文化を練り上げた時代の終わりに位置していた。それから約百年これらの職人技の大半が失われてしまった。原因は効率を求めて全てを機械化したからである。全ての分野でロボット化、機械化が取り入れられ一部は現場から工場へと移された。その結果職人の仕事から手仕事がなくなった。手で触って確認する事がなくなり機械による計測に変わった.確かに工学的には正しいが、そこに文化や芸術が生まれるであろうか。いきなり芸術が出てきて驚かれたかもしれないが、建築に芸術論を持ち込む人は多い。日本の職人文化が栄えていた同じ頃、産業革命がもたらした機械化、工業化、都市化にイギリス人の建築家J・ラスキンは警鐘を鳴らし、過去の建築の保存運動を提唱した。その考えはナショナルトラスト運動として現代にまで引き継がれるとともに、ウイリアム・モリスのアーツアンドクラフツ運動として一世を風靡した。ラスキンの思想の中に{手の労働と頭の知性が分離してはならない}というのがある。まさに江戸時代の職人技のことを言っているようである。そしてモリスのアーツアンドクラフツ運動は中世のデザインの全体性を復活させようとした。結局コストの問題で挫折する事になるが、その精神は生活の芸術化の見直し論として現代に復活している。機械化はコストの問題を解決し、文明の大衆化を実現させたが、生活文化という点では問題を残した。大量生産は飽きの来ないものづくりは不得手であり、サステイナブルな生活には向かない。使い捨て経済の見直しの求められる現在は、デザインのモデルとしては一回性のデザインや希少性のデザインが求められる。人生は一回きりであり、生き方、生き甲斐も人それぞれである。人間性の回復と自然環境との両立を可能にするのは、生活の芸術化と、そのための職人技の見直しである。実例を挙げよう。現在日本ではデフレという現象が起きている。価格破壊が叫ばれ、値段を下げて市場を早く抑えたものが勝ち組みになれる。その典型が繊維市場で起きている。確かに消費者は安くなって喜んでいるが、大量生産品なので一年で飽きてしまい使い捨てにする。だから大量にリサイクルにまわされてくる。そんな繊維製品があふれて処理が出来ないという事である。大量生産品が使い捨てにされる典型的な例であり消費者はリサイクルにまわす事で罪の意識から逃れている。良い着物を洗い張りして何度も使った時代とどちらがより人間的か文化的か、価値観を修正しなければならないと思う。それと同じ過ちを家つくりでもやっているとしたらその影響は繊維製品の比ではない。廃棄物の半分が建設廃棄物であるというから、ゴミ問題は建設のやり方に掛かっている。そして建築の生活文化への影響も繊維の比ではない。生活空間の大半は建設物で構成されている。それが現在の都市生活者の現実である。その大切な空間を非文化的なものにしてしまったら生活のクヲリティーは確保されない。今、一部の工場からベルトコンベアーが外されている。労働生産性を挙げる為に導入されたベルトコンベアーが生産性向上の足かせになっているという。ベルトコンベアーによる大量生産方式より、一人で完成品に仕上げる多能工による一貫生産システムのほうが効率が上がるという事である。まさに人間の労働のあり方を如実に示す好例である。ラスキンの労働観の正しさ、{頭と手の分離の戒め}どおりの結果ではないか。職人が生き生きしていた時代、生活に文化があった時代を復活させる事が、犯罪の多発する、狂った現代への唯一の処方箋ではないか。これがニュー・アーツアンドクラフツ運動を提唱する所以である。この運動は言い換えると生産の質を上げ、一方で生産の効率を落とす運動と取られるかもしれないが、出来上がったものの質が向上すれば決して生産の効率が落ちた事にはならない。最初から同じ物を作るのではないのである。したがって比較する事は出来ないし、比較するべきものではない.人生に対する姿勢の違い、価値観の違いであるからである。あるのは選択だけである。
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