●ホーム   

 目次はじめに T.何故今永く愛される建物か U.永く愛されるには V.永く愛されるために W.永く愛される建物を作る為に提言)X.100年後の街並み Y.200年住宅を注文する エピソード   トピックス『ニューアンドクラフツ』 トピックス『建設環境コーディネーター』 トピックス 『土地問題と永く愛される建物』 トピックス『NPOと永く愛される建物』 トピックス『日本民家に学び直す』 永く愛される建物 まとめ」  

U.永く愛されるには

愛される理由

イ.過去に学ぶ

 人類の歴史の中で,建物といえるものが出現した時期は何時ごろであろうか。そして現在まで残されているものはどれくらいあるのであろうか。それらに学ぶ事は大変重要な事であるが全てを網羅する事はとても出来ない。残されてきた理由も,条件も全く違うであろう。しかし現実にそこにあることから何かが引き出せるはずである。まず,残されてきた理由を考えてみると残っている建物には大きくいって3種類ある。一番多いものは社寺仏閣の類であり,宗教的なものである。二番目が宮殿を含む城郭建築である。三番目にやっと住宅が出てくるが,これは時代や風土など形態も千差万別である。一番目の宗教建築はその宗教が無くならない限り残す力が常に働いており、我々の研究の目的にはそぐわない。しかし,そういった建物でもより良くしようという情熱が働くので全てが残るわけではない。その中でやはり愛されるものとそうでないものとはあるであろう。その決め手は宗教的な建物であるから当然人に感動を与えるもの霊的な何かを感じさせるものなのであろう。
昔,東本願寺の大広間で,真夏の暑い盛りに,ごろんと寝転がった事があるがその爽快感と、安らぎの感じは今でも忘れられない。考えてみると仏様の手のひらの上に寝転がったという事かもしれない。ヨーロッパの古い街の中にある教会に足を踏み入れた事が何度もあるが、信者でもなんでもないのに何故か懺悔をしたくなるような思いをした事がある。又真冬の雪深い山奥の小さな祠に神宿るという気配を感じた事もあるのではないだろうか。宗教的な建物の永く愛される基本は人に感動を与えつづけたかどうかという事であろう。二番目の宮殿や城郭建築は歴史的な意味や権力の力がどう働いたかで残る、残らないが決められる事が多く、永く愛される事とは必ずしも一致しない。勿論、各地に残るお城や、宮殿で市民に愛されているものは多々ある。しかし、それらは単に眺める対象であって、誰でもが使用や利用が出来るわけではない。そういう意味でも城郭や宮殿は考察の対象ではない。三番目の住宅には生活の場所としての公共の建物も含まれるし、ホテルなどの商業用の建物も一部入る。工場やオフィースなど生活の場所でないものは考察の対象になりにくい。さて、生活の場としての住宅を考えると日本にも千年家とか白川郷の村落とか永く愛され使われてきたものも多い。これらに共通していえる事は、まず自然条件に恵まれた事である。愛されつづけてきたのは建物そのものの魅力があることは当然だが、むしろ社会条件の方が大きな要因であろう。ここで学ぶべき点は、現在のスクラップアンドビルドが日本の伝統ではないという事である。
     次に過去に学ぶ点は、工法とか立地条件とか物理的な条件である。まず、使用材料であるが、海外ではレンガや土、石など腐らないものが多いが日本では木で作るから腐ってしまって長持ちしないという話がある。しかし、石造りや日干し煉瓦などの多いイギリスでもその昔は木造であり、木材資源の枯渇で已む無く材料を変えたという話である。今で言うサステイナブルな条件からはみ出した結果が石造りの家なのである。古代や中世で栄えた文化が滅びた原因は大抵、森林資源を食いつぶしエネルギーに困ってその文化が衰退したという学説がある。これほど木材は人間の生活に切っても切れない関係があるのである。今後の循環型社会の実現の為にも木造の長寿命化について過去から学んでおく事は無駄ではない。
例えば正倉院の校倉造は天然のエアコンであり高湿度の日本の気候にピッタリであると同時に、現在の健康的な家作りにも生かせる可能性のある技術である。今、話題のシックハウス症候群の問題などは天然の木材の使用と適当な換気で解決の付く事である。それを快適性を追求するあまり機密性を高め、断熱性を高め、そのために化学物質を多用して結果として建物にも、その使用者にも不健康な状況を作り出してしまったのである。正倉院の例を見てもわかるように湿気が建物の寿命に大きく関わる事はよく分かっているが、現在は湿気を取るにも除湿機やエアコンを使っている。そして昔の技術で感心するのは、大規模な木造建築の場合、基礎の下に炭を敷いていた。木造建築でも、どんな構造でも、建物の寿命は土台で決まり、特に木造の場合土台部分の湿気対策は重要である。最近やっと床下全面にベタコンクリートを打設することが行われるようになったが、湿気対策としては炭のほうが上である。技術は一直線に進歩するものと思っていたが、こんな例があるとすれば過去を時々見直す事も大切である。永く愛する為には長持ちさせなくてはどうにもならない。その他、白川郷の合掌造りの屋根の定期的な吹き替えは、メンテナンスの好例であるし、家の中で囲炉裏を使う事が柱や梁の長持ちに効果があるなどは、生活の知恵としては高等なものである。又虫の害からも守ってくれるという事も勘案すれば一石二鳥、いや三鳥にもなっている。現代技術は化学物質を氾濫させその結果、環境ホルモンやダイオキシンの問題を引き起こしている事を考えれば、過去の生活の知恵は宝の山である。それに、最も重要な事は過去の大半の期間は循環型経済社会であったことである。新たに目指す社会が基本的には循環型社会でなくてはならない事は、既定の事実である。となれば、その知恵の大半は過去の生活の中にある。畳の表変え、障子の張り替え、屏風の活用など無くした生活の中に見直すべきものはまだまだたくさんあるはずである。ふすまの間仕切りが可動間仕切りで、葬儀や結婚式、法事にお祭り、人が集まる時には俄かに大広間、特設会場になり、現代が追い出した日常生活の大部分を家の中で行う事を可能にしていた。家の存在はもっともっと大きかったのである。そしてかなりの職業が家の中で行われており職住近接であった。その事が家族のつながりを高め犯罪を防いでいた事もあるのかもしれない.何もかも過去が良いというわけではないが、現状に問題がありすぎるのであれば、人間の行ってきた事がすべて進歩であるという考えを捨て、素直に過去に学ぶ必要はあるであろう。そして過去の良い点を選び、現代に生かす。そして社会を持続可能なスタイルに転換する。その中で
,場合によっては現代の生活の便利さや快適さの一部を放棄せざるを得ないのかも知れない、

2.外国に学ぶ

  前節で過去に学ぶ点について述べたが、外国に学ぶ点も多い。良く言われることであるが、日本の建物の平均使用年数30年イギリスの平均使用年数140年。これだけの違いが何から出てくるのか、一体何が原因なのかじっくり考えてみる必要がある。永く愛する為には建物が十分な耐久性が必要ではあるが、それ以上に重要な点が社会環境の問題である可能性が高い。
社会制度、特に階級社会の存在が意外に大きい可能性がある。階級社会にあっては住宅は階級のシンボルであり保持していく価値のあるものなのである。即ち先祖伝来の立派な家屋敷を引き継ぐ事が階級社会でのステータスシンボルである。イギリスの田舎に点在するカントリーハウスはそれぞれこよなく愛され保持されている。建物を愛するあまり生じる色々なドラマを小説にしたものも多い。デュ・モーリアの小説「レベッカ」などもそのひとつであろう。日本に階級社会を持ち込むことはタブーであるから、そのままイギリスを真似る事は出来ないが、例えば先祖からの資産を引き継ぐ事が今のお宝、骨董ブームのように格好が良いという価値観を醸成する事は可能であろう。かつて江戸時代の江戸の街並みは世界に十分誇りうるものであったという。当時、江戸を訪れた外国人は江戸の街並みと、緑の美しさに目を奪われたという。ガーデンシティーそのものであったのであろう。武家屋敷と町人の住む下町それぞれに魅力があったのである。それが今日の東京になってしまった原因は何であろうか。度重なる大火、震災、空襲と多くの災害を受けた事は間違いない。しかし、アメリカのサンフランシスコは大火を経験した後、あの美しい街並みを作ったのである。ノブヒル周辺のビクトリアンスタイルの戸建住宅が並ぶ街並みの美しさ。災害の後ほど外国の場合、都市計画がきちんとなされ街並みの整備が進む事が多い。住民の理解が得られるからであろうが、日本ではとりあえずのバラック建築が建ち並び、その後整備しようにも猫の額のような土地にしがみついて離れない。道路整備に至っては橋の哲学などというわけの分からない事を言う学者上がりの政治家が出たりして、100メートルの整備に何十年も掛かってしまうような事である。
    そして土地に対する執着の強さが一体どの時代に出来たのか分からないが,戦前は借家住まいが当たり前だったというから戦後のものとも考えられる。いづれにしても、猫の額のような土地でも自分の土地であり,自分の土地である以上は,法規さえ守れば何を建てようと個人の自由だとばかりに勝手なものを建てて平然としてきた。そこには街並みや隣近所に対する配慮は全くなく、コミュニティーは存在していなかった。それが又都会人の他人への無関心という非人間性を助長し、人間関係の希薄さがもたらす犯罪に対する無防備な都市を作り出した原因にもなっているのである。
  パリの街並みは素晴らしいと誰しもが思う。しかし,公園に一歩足を踏み入れると犬の落し物だらけである。日本人にしてみれば公徳心のなさとしか見えない。一方フランス人が東京の街並みを見たら日本人の街並みに対する不感症はやはり公徳心のなさと映るであろう。,アメリカの住宅街の芝生や植え込みの美しさは誰も否定は出来ないが,よく言われるようにアメリカでは庭の手入れは住民の義務であり,植え込みはコミュニティーの共有財産で、木一本切るにも近隣住民の同意がいるとの事である。家の中はプライベートでも外観はパブリックという考えなのである。日本は土地が狭いから乱雑なんだという人がいるが.確かにその点は否定できないであろう。しかし,ヨーロッパの古い都市、かつて都市国家といわれた街の旧市街は東京よりも密集度は高い。それでも決して乱雑ではなく.統一の取れた、よく言えば整然とした街並みが多い。日本人の国民性といえばそれまでであるがグローバルな視点が求められている現在、街並みも街づくりも国際競争の中にあるといえる。何とか良い方向に変えていくきっかけをつかまなければならない。その点で,バブルがはじけた現在、土地の値段は下がりつづけておりこの機会に都市の再生を期待する声は大きい。そして土地の値段はまだ下がるという説がある。それは日本が中位工業国から高度工業国,そして脱工業国へと変化していく中で起きた大量の工場の海外進出によって土地あまり現象が止まらないからであるという。それが事実であるとしたら21世紀初頭の日本は景気はともかく、都市再生の絶好の機会である事は間違いない。ただし,それは物理的環境だけであって国民自身が都市環境の重要性に気づき良い環境づくりに協力する姿勢を見せてくれる事が必要条件である。

  3.現在を考える

  現時点で愛される建物はどんな建物かという問いかけをするつもりであったが,多くの議論は何故永く愛されないかという話ばかりであった。勿論その話を裏返せば良いのだろうが,出てくる話はまず否定的なものが多い。「消えゆく20世紀の建築」日経アーキテクチャー2001年1月25日号によれば建物が残せない理由として

     耐久性に対する不安

     デザインの陳腐化

     集客力の低下

     土地の有効利用

     機能の不具合

     維持費の増大

     使用者や所有者の変更

等をあげている。結論として,永く使うと損をする仕組みになっているという。
減価償却という仕組みも消費者に永く使わせようという気にさせない仕組みであるとの指摘もある。これらの矛盾は第W章で述べるが、現時点で、永く愛される理由を探し出す事は難しい。一方過去の名建築をも超そうという試みは次第に強く大きくなってきていて,現代建築に対する普通の人々の思いとのギャップは益々大きくなっている。とは言え,存続を期待されている建物がそのままの形で使いつづけられているかというと、大抵は残す事に意義があるということであって永く使い続けられるものは少ない。機能の不具合がその原因なのであろうが、それでも中には内装や設備をやり替えて使われているものもないではない。ヨーロッパでやられているファサードだけ残す場合もある。東京丸の内の銀行協会のビルなどは典型的であるが,あれでも残すという精神は確り伝わってくるから,やらないよりましな事はいうまでもない。あんな事例を見ると問題は税制や,都市計画や機能の問題もあるが、現代建築には永く愛するに足るものがないというのが妥当な結論かもしれない。ロンドンやパリの建物に比べれば丸の内のビルなどは新品同様なビルであるのに残せない、残そうとしないのはやはり魅力がないのであろう。向かいの東京駅とは大違いである。ニューヨークのエンパイアステートビルも壊すという話を聞かない。愛されているからであろう。高さも機能も美しさも今ではNO.1ではないのに,その歴史と圧倒的な存在感ゆえに愛されているのであろう。日本では京都タワーなど建設当時は反対が多かったのにやはり得意な存在感のゆえに見慣れてきて、ないとさびしいという意見も聞かれるようになっているというから人間の愛憎ほど難しいものはない。蓼食う虫も好き好き、とか痘痕も笑窪とか人間同士と同じかもしれない。それでも残して使い続けるほうが、環境に良い事ではあるが、永く愛される条件の結論を出すのは難しい事である。現代に愛されるものが少なければ次に未来に思いを馳せる。

  4.未来に思いをはせる

  20世紀後半の建築には見るべきものが少ないが,21世紀になると100年住宅を標榜する人が多くなり強くて長持ちのする建物が多くなってきた。しかし飽きのこない普遍的なデザインに対する議論はまだまだその緒についたばかりであった。いろいろな分野でユニバーサルデザインなる概念がもてはやされていたが,建物に対して普遍的なデザインの研究は全くなされていなかった。
20世紀の最後の10年はコンピューターが発達した時期であり,設計も大半はコンピューターがやり、効率は確かに上がったが反面個性がなくなったという批判がある。どの設計もある程度美しいが訴えてくるものに乏しい。21世紀の建物が20世紀後半の建物のように相変らずスクラップアンドビルドの思想の延長で建てられては、大量生産から大量消費,大量廃棄の繰り返しになってしまう。21世紀は22世紀23世紀のことを考えて建物を作っていかなければならない。200年後の人達も愛しつづけられる建物の条件は何であろうか。遥か未来に思いをはせて,少なくとも200年の間愛されつづける魅力とは何かを考えねばならない。これからの社会がどのようなものになるか、これを想像するのは簡単ではない。しかし、これまでも人類の歴史はつながってきたし,つなげていかなければならない事は確かな事である。人間の想像力は素晴らしいという面もあるが,全くお粗末な面もある。100年前に想像だった事で実現しているものがたくさんある。想像力と創造力の素晴らしさである。一方,地球温暖化や,環境ホルモンの問題,種の絶滅の問題等に対しては,人間の想像力の欠如が主犯である。従犯は人間のエゴである。一見人間は時代とともに大きく変わったように見えて、本質的には変わっていない。いや寧ろ人間の愚かさの部分とエゴイスティックな面は益々進化しているように思える。特に,青少年の犯罪を見ると人間は何を努力してきたか大きな疑問に突き当たる。彼らに対しては想像力の欠如としか言いようがない。確かに20世紀は物質的豊かさをもたらしたかに見える。その点でもまだまだ全人口の4分の1が飢餓状態にあるのであるから十分ではないが,精神的な豊かさは確実に退歩している。衣食足りて礼節を知るという言葉があるが,これは希望であって絶対的な真実ではないと思う。人間の一番必要なものは心の満足,充実感であり物質的豊かさはある限定付きの必要条件でしかない。この事を確り踏まえて未来に思いをはせれば200年後の人にもある程度評価されるものを残せるのではないであろうか。人に心の安らぎと感動の舞台づくり、総合芸術といわれるオペラ以上に総合芸術である建物。オペラの舞台は永くても何時間続くだけの劇場であるが世代を繋ぐ建物は人間の命を演じる舞台でありそれも数百年続くドラマの舞台である。顧客満足という言葉が経営の分野でもてはやされているが顧客は目の前の顧客プラス6世代あとの目に見えない顧客まで含めないと真の顧客満足を考える事にはならないと思う。未来に思いをはせるとはそういうことなのである。

本当の愛され方

1.誰に愛されるのか

  ナショナルトラストという運動をご存知であろうか。1895年イギリスに設立された民間の自然保護の団体である。会員の納める会費で貴重な自然や文化的な遺産などを買い取り,保護や管理にあたっている。その中には当然貴重な建物も含まれており、多くの歴史的建造物や文化的な建築物も保護を受けている。それらは国民の、いや人類全体の遺産であるという考え方である。ナショナルトラスト日本支部も活躍しているが大きなうねりにはなっていない。イギリスの歴史的建造物の保存にこの運動が役に立っている事は間違いない。この稿のテーマは建物は誰に愛されるのかという問いに答えることである。このナショナルトラスト運動を見れば結論は市民になる。しかし,この運動がイギリスの建物の平均使用年数140年の原因ではない事はご理解いただけると思う.勿論多少の貢献はしているであろうが。そして,この運動は保存を目的としており使用を目的とはしていない。我々の目的とは最初から違うのである。勿論大切な運動である事はいうまでもない。永く愛される一つの形であり,それはそれで大いに意義がある。
    さて誰に愛されるかというテーマに戻るが、最初に念頭に浮かぶのはその建物の発注者である。ただし発注者イコールその建物の愛好者ではない.可能性は高いが,設計や施工の段階で発注者の考えと異なる部分があったりするとかえって愛せなくなってしまう事もあるからである。それでも出来の悪い子どもでも可愛いという事もあるから愛好者の筆頭ではある。次に関わるのは設計者である。設計者は施主の考えを忠実に現実の形にする義務があるが,発注者が素人であると自分の考えをうまく押し付けて自己実現の機会にしてしまうことがあるからかなりの愛好者である。しかし設計者は建物が完成すれば関係者ではなくなるから永く愛する事は期待できない。作品を愛するという感情がどの程度続くものか人それぞれであろうが,生みの親と育ての親の違いのように,生みの親でも日常に関わらなければ愛情は続かない。次は施工者であるが、自分の経験でも建物を完成して引き渡すと子どもを養子に出したように,その時点から他人の子になってしまったという感じである。施工をしたといっても引き渡し以後は外から眺める事は出来ても立ち入る事は出来ない。愛情のやり場がないから努めて忘れる事にするといった具合である。永く使ってもらう為に尽力するという関係にはなりにくい。その他関係者としては近隣住民,一般社会の人なども考えられるが,関与の度合いは益々薄くなるから強烈な愛好者が出るとしたら特殊なケースであろう、結論的に言えばやはりその建物の所有者が愛さなくては永く使用して愛される建物にはならない。所有者が発注者から他の所有者に移った場合その思いは当然異なる。新しい所有者は所有する経緯はそれぞれであるが場合によっては新しい所有者のほうが強い愛情を持つこともある。心ならずも所有する事になった場合には,愛情を期待する事は出来ない。期待すべきは建物そのものの魅力しかない。それさえあれば,所有者が代わっても愛されつづける事は請け合いである。
    例えば、都市再生の手法の一つとして不動産の証券化が注目されているが,所有の形態が革命的に変わることになる。これが,永く愛されることにどのような影響を与えるか大変気になる事ではあるが,一つの建物の所有者が実質的には不特定な多数になるわけである。したがって,収益性には高い関心があっても,個別の建物に愛情を持ってくれる事はあまり期待できそうにない。頼りは,永く愛されることが高い収益性につながる事である。その様な研究が進み,良い街並み作りにつながる事を期待する。よく考えてみると冒頭に述べたナショナルトラスト運動も多くの人の期待で所有するわけであるから目的が違うだけで似たような形態とも言える。結局消費者の価値観が良いものを求める,長持ちするものを求めるようになれば良いのである。ナショナルトラスト運動も良いが賢明な消費者を育てる運動も大切ではないかと思う。

  2.どのように愛されるのか

愛情ほど複雑なものはない。いじめが愛情の表現である事も男女の仲ではまれではない。建物と人間の関係も同様に複雑である。どんな愛し愛され方をしようとその事はあまり重要ではない.結果として,永く愛され使われる事である。スペインを旅すると変わった建物に出くわす。スペイン文化はご存知のようにアラビア文化とキリスト教文化が入り混じって創られた文化である。長いアラビアの文化支配の後キリスト教が国を支配して現在にいたっている.だからアラビア式のモスクがオリジナルで後からキリスト教の教会に変えられたところも多い。それが奇妙な魅力をかもし出しているのである。これまであったものを破壊して新しいものを作るのではなくこれまであったものを再利用していく。異文化の交流、それが,新しい文化を築いていく。支配する側される側の間でも文化は伝わっていく。これが文化のダイナミズムであり面白いところである。わが国でも渡来文化の影響はあまりにも大きく何がオリジナルな日本文化かわからないくらいである。異文化として入ってきてあたかも日本文化の象徴とも言われるものもある。桂離宮だって純粋の日本文化ではない。このような文化の混合によって生まれた建物はその双方から愛される可能性と愛されない可能性を秘めている。それでも生き続けた建物には何かの普遍性があるのである。スペインの石造りの建物は何年かに一回は表面を清掃する義務がある。それが美しさを保つ事に寄与している事は間違いない。それに引き換え日本の社寺建築は出来た時のまばゆいばかりの極彩色のものがすっかり剥げ落ちても塗りなおすことなく木肌をさらさせている。これがかえって日本的な美の再発見につながり日本文化の象徴的な存在といわれるようになった。愛され方も千差万別である。
   人間の健康維持に定期検診が必要なように建物を長持ちさせるのに維持管理は重要である。今後中古市場の流通が盛んになっていくが,定期検診の記録(カルテ)が中古の査定の場合の大きな参考資料になるべきである。その他愛され方の問題としてはかなり古くなってからの改修などの方法であろう。再び人間にたとえると老人医療や介護の問題である。この辺になると全く研究がなされていない。そして最後はターミナルケアならぬ廃棄処分とリサイクルである。愛されたものは一部でもリサイクルされる事を望むが出来ればリユースのほうが望ましい.日本家屋の場合欄間やふすま、障子などリユースしやすい工夫が昔からなされている。臓器移植の遥か前からだ。 環境問題に詳しい人は環境対策の三本柱は

T、リデュース

  長持ちさせて新規投入を減らす・

2.リユース

  そのままの形で使える部分だけを取り出し使う

3.リサイクル

  エネルギーを使って再生する。(1.2.が適わない場合考える。)

以上である事をご存知であるが、優先順序もこの順番どおりである。食材の誉め言葉に捨てるところがないという言葉があるが,建物もそのように計画されていて欲しいものである。