目次はじめにT. 何故今永く愛される建物かU. 永く愛されるにはV. 永く愛されるためにW. 永く愛される建物を作る為に(提言)X.100年後の街並みY.
200年住宅を注文するエピソード
トピックス『ニューアンドクラフツ』トピックス『建設環境コーディネーター』トピックス 『土地問題と永く愛される建物』トピックス 『NPOと永く愛される建物』トピックス『日本民家に学び直す』永く愛される建物 『まとめ」
W.永く愛される建物を作る為に<提言>
■発注者の立場から
理想的な発注者というものがあるとしたら、どんな条件になるのであろうか。勿論結果として永く建物を愛してくれる発注者という事になる。永く愛する事になる建物を発注してくれる発注者である。ということは理想的な建物を発注してくれる発注者である。即ち、どのような建物が理想的な建物か真の価値を知っている発注者である。こう考えていくと理想的な発注者など存在しないという事になる。ではそこまで求めるのではなく、理想を求める事だけは理解している発注者は具体的にどんな要求を出すであろうか。
1.建物の使い心地(使いやすさ、快適さ、便利さ、安全性など)が良い建物
2.メンテナンスフリー(維持管理に手間が掛からない事)
3.ステータスとなるような建物
4.ローコスト、高品質を満足する建物
5.環境問題に対する配慮のされている建物(シックハウス対策などを含む)
6.飽きのこないデザインの建物
7.時代のニーズの変化に対応できる建物
以上挙げれば際限がないが、良い発注者とは厳しい要求を出す事の出来る発注者である。厳しい要求はするがあくまでも合理的な範囲でなくてはならない。無理やごり押し的なことを要求されては困る。発注者としての倫理をわきまえなくてはならない。発注者の権限は、設計者や施工者よりずっと大きいわけだから、永く愛される建物作りに対する責任も一番大きいのである。
発注者として、永く愛される建物を発注する為に、現在の業界に対してお願いするとしたら以下のような事であろう。
1.建物が長持ちすることを保証してくれなくても理解し確信させるものを提供してくれる事。住宅の品質確保のための新法(品確法)などはひとつの方法である。
2.建物の完成後もメンテナンスの方法や場合によってはモニタリングサービスの提供をしてくれること。モニタリングの結果はデータベースで提供してくれる事。
3.良い建物を発注し、きちんとメンテナンスされたものと、そうでないものとの鑑定のシステムを作り、確りと評価をしてくれること。
4.建物の完成図面の保管期間を100年以上にして頂きたい。
5.建物の目的変更にも対処できるように配慮しておく事。
(スケルトンインフィルでの対策が必要)
永く愛される建物を発注する事が、この厳しい市場経済のシステムの中で成り立つように、即ち、発注者のメリットになるように、全ての仕組みを整備し直して頂きたい。この問題は、建物単独の問題ではなく街並みや環境整備の問題とも絡むのでそんなに簡単な問題ではないが、建設産業界あげて研究する価値があるのではないか。
■設計者から
設計者は施主の注文を出来るだけ忠実に実行するのが仕事であるが、それを前提にしても設計者が永く愛される建物作りに貢献する道は十分にある。勿論施主との意思疎通はその大前提である。設計者は施主に対してまず永く愛される建物を作る事に同意してもらう必要がある。コストの制限の中での努力であることはいうまでもない。
設計者が注文者、発注者に対して理解を求めるとしたら次のようなことになるのであろう。
@
建物は単独で存在しない。特に外観には高い公共性がある。街並みとの調和の大切さ。
A
第三者に対する安全性の配慮(塀の使い方など)
B
コストの判断は極力ライフサイクルコストで考える事。
C
将来の使い方の変更に対応する事が出来るようにスケルトンアンドインフィル型の構造にしておく。
D
構造、材料、設備等長持ちする設計にする。
E
設備は長持ちと同時に極力省エネタイプにこだわる。
F
デザインは施主の好みを大切にするが余り奇抜なものを薦めない。
G
ベストな維持管理のシステムを提案する。
H
住宅の場合、以上の要件を発注者に分かり易く説明する為のツールを開発する必要がある。例えばコンピューターによる時間経過を入れた4次元モデルの開発など。(昔、建具の起こし絵なるものがあった)
設計者は、建物の実質的所有者となる発注主と最初にコンタクトし実際の形にする為の提案の出来る唯一の人間である。コンストラクションマネージャーやプロジェクトマネージャーが存在しない場合良い方向に施主をリードできるのは設計者以外にない。その意味で、設計者の責任もかなり重い。
現在の設計者と施主の関係は、色々なケースがあるとは思うが、環境問題や街並み作りまで配慮して施主との対応の出来る設計者はあまりいないのではないであろうか。 設計料の料金が図面一枚いくらでは悲しいし、建築確認をとるのが主な仕事ではもっと悲しい。設計監理料がこの様な総合的なアドバイスを含めたものとして施主に正しく理解されるように建築設計を職とする人間は努力していかなければならない。そしてそれに見合った対価を得られるよう努力する事も重要である。
■施工者から
建物の最終関与者は使用者であるが完成時の最終関与者は施工者である。施主の意図を忠実に具現化した設計があってもそれを具体的な形にするのは施工者である。永く愛される建物が最終的に完成するかどうかは一に掛かって施工者の責任である。設計が素晴らしくても杜撰な施工であれば永く愛そうにも愛せなくなってしまう。
土木学会では橋やトンネルに設計者だけではなく施工管理者の名前を名版に入れて残す事を提案している。永く愛される建物を確り作って責任をもってもらうには良い方法かもしれない。この家はなんのたれべえ作なんていうのも悪くない。「いい仕事しているね」なんて言われたいのは人情であろう。それより先に、骨董の目利きではないが、いい仕事を正しく評価できる人を育てなければならない。家の鑑定や目利きの段位などを作ってみるのも面白い。職人技の復活にはそれを評価できる人が必要なのである。手抜きがどうの手抜かりがどうのと論ずるよりも、まずは誉める方法を考えたほうが職人には効き目がある。これまで施工については悪さ加減が言われすぎていた。悪い事はあったであろうが、あまりに言い過ぎると業界にいい人が集まらなくなってしまい悪循環になる。数年前の新聞に小学生のなりたい職業のNO1,が大工であったという事である。しかし、その小学生が職業につく頃、その職業があまりに悪く言われ、評判が悪ければ、実際その職業につきたい人はいなくなってしまう。現在の職人の給料は決して高くはないが、それよりも低いのが社会的地位である。良い仕事を責任を持ってやってもらうにはまず名誉の回復が先である。待遇は仕事についてくるもので高度な仕事をこなす職人が出てくれば、又、それを評価できる発注者が出てくれば、自ずから待遇は良くなり、そして永く愛される建物が出来上がる。このシステムを実現する為に何所から手をつけるかである。
日本には古くから家元制度がある。流儀、流派も多々ありそれぞれの伝統を作り上げてきた。価値観の統一は難しいし、又正しい事でもないのでこのような流儀、流派が乱立しているやり方は案外合理的かもしれない。たくさんの家元が勝手勝手な流儀流派を唱えて多くの価値観の違いを競い合えば特に美的価値観なぞは次第に磨かれよい方向にまとまっていくかもしれない。ただし、免許皆伝に巨額の認可料を吸い上げるなどという事は止めたほうが良い。
その他、施工者からの提案は、発注者からの押し付け工期の是正をお願いしたい。無理なコストも永く愛される建物作りには大敵であるが、それ以上に無理な工期は施工ミスのもとになると同時に品質低下の原因にもなる。適性工期がなければよい職人技の発揮は難しい。
ここまで議論が進むとそろそろこんな声が聞こえてきそうである。今更職人技の復活なんて古い。出来るだけ工場生産にして現場生産を無くし品質を上げ、工期を短くコストを下げる。これが二十一世紀の求める生産システムである。出来るだけ人間のかかわる部分をなくし、ヒューマンエラーを少なくするべきである。一見正しい議論のように聞こえるが、永く愛される建物を作るという観点からすると少し違う。過去から永く愛されてきた建物には人間の体臭や手垢の染みついたものがほとんどである。職人技の個性が息づいている建物が多い。手間をかけるということは時間を掛けるが、エネルギーを多く消費するやり方ではない。これまでのようにそんなに急いで作り続ける必要があるかということもある。大量生産、大量消費、大量廃棄が見直される時代に求められるのは、価値あるものを、じっくりと手間をかけて作り上げる生産システムである。このような生産システムによって出来上がるものが市場経済の中でも立派に生き残れるように新たな研究が必要である。現代の名工を復活させるにはどうしたらよいであろうか。
ニ.建設環境コーディネーターから(新機能)
地球環境の世紀、21世紀を迎えて、環境問題のエキスパートは大忙しである。環境問題は人類の生活のありとあらゆる分野にかかわりを持ち、環境問題無しに過ごせる日は無いといっても過言でない.その中でも建設分野はその規模、影響力ともに環境問題の横綱格である。その様な認識のもと、建設分野のエキスパートと環境問題のエキスパートが専門分野を超えて協力しなければこの難問を解決する事は出来ないと考えた。とは言え双方の分野ともその幅はかなり広く、建設全般をカバーしきれる専門家もいないし、環境分野でも然りである.しかし、どちらかの専門分野にある一定以上の能力をもち、建設技術者なら環境について基本的な知識を備えた技術者の出現を期待する事は出来るであろう。又、逆に環境分野のエキスパートでも建設分野の基礎的な知識を持った人がいることは期待出来ると思う。そして前者の環境問題に比較的明るい建設技術者を建設環境コーディネーターと呼びたい。このような基本認識のもと、建設環境コーディネーターの役割をもう少し詳しく述べてみる。
建設環境コーディネーターはまず建設技術者としてある分野についてはトップクラスの見識を持ち建設全般については基礎的な技術力を持っていることが必要である。そして環境分野については、特に技術力という事ではなく基本認識が確りしている事が肝要であり、環境倫理について確かな見解を持っている必要がある。環境倫理についての見識があれば、当然建設行為の基本的あり方についての考えを持ち合わせているはずであり、プロジェクトに十分に生かしていける。そして、大切な事はコーディネーターは建設の過程でその考えるところを建設関係者、特に、発注者に理解してもらわなくてはならない。そのためには、ものづくりのプロセスを公開していかなくてはならない。そしてプロジェクトが完成しても維持管理についての発注者の理解を促しておく必要がある。永く愛される建物作りに必要なアドバイスを十分に出来る職能が、この新しいコーディネーターの役割である。
環境問題の重要性が益々高まっていく中で、建設環境コーディネーターの出現が期待されるが、建設環境コーディネーターが出現したとしたら永く愛される建物のためにどんな提言をするであろうか。
まずは、現行の建設関係の法規の考え方に厳しい注文をするであろう。現行法が最低の環境を守る事に汲々としており、安全についてはそれなりの規制はあるが良いものを作らせ永く使わせる事が考えられていない。環境問題の基本認識では、リデュース、リユース、リサイクルであり優先順位もこのままである。リデュースすなわち永く愛して使いつづけることを考えなければならない。建てる量を少なくする事即ちリデュースに繋がる色々な方策を研究開発することが、建設環境コーディネーターの役割であり、そこからまた新たな提言が出てくる。
ホ.住民から
車社会といわれてどれ位になるであろうか。旅行や遠足が、遠くに足を運ぶ事から単に車で移動する事に摩り替わって久しい。しかし近年になって、少し様子が変わってきた。勿論基本的な移動は乗り物に頼るが目的地に着いてからは少なくとも歩くようになった。タウンウォッチングなる言葉や遊歩なる言葉も聞かれる。古くからある散歩とどう違うのか知らないが、今のは散策に近いのかもしれない。旅行も最近は名所旧跡の駆け巡りははやらないらしい。ある程度の時間をかけて滞在するコースが人気のようである。特に海外旅行を考えてみると、これまでのツアーはほとんどが見る事に費やされてきた.それもかなりの部分建物である。それが次第に何かを経験する事が期待されるようになってきた。単に見る事によって得られる感動から、何らかの参加をして得られる感動を求めているのである.言い換えれば点で接触していた事で満足していたものが線や面での接触になりトータルな雰囲気や味わいを求めているといえる。単に個別の建物を見るのではなく街全体を味わうようになったのだとも考えられる。これまでも街並みの大切さは言われてきた.しかし海外に出る事の多くなった日本人が最近気付き始めた事がある。それは、土地の持つ本当の意味である。永らく日本人は土地そのものに価値があると思ってきた.永い農耕の時代の価値観の名残として耕して天に至るほど土地を大切にしてきた。しかしバブルがはじけてやっと気付いたのである。土地そのものにはなんの価値もない事を。土地には利用価値があるだけなのである。離島の誰も行けない土地にはなんの価値もない。都心の交通至便のしかも買い物なども便利な生活の条件が整っているところのほうが郊外よりも土地の利用価値が高いという事を。そして、同じ都心でも余りにごみごみしているところよりも、整然と整備された街並みのほうが価値があることを。又、古くからの文化の香りのする街並みをもつ土地のほうが価値が高い事を。そして、これらの差が、先人の、先住民の努力の結果である事が多いことを学び始めたのである。街づくりのNPOが色々な町に作られ活動を開始したのは決して偶然ではない.この街づくりは新しい価値の創造であり、しかも街同士の競争でもある。歴史と伝統のある街は如何にしてそれを守り維持していくか。新しい街は新しい魅力をどう作り上げるか。それぞれが個性を発揮すべく努力を始めている。
これまで、都会に住むものに帰るべき故郷はないといわれてきた.しかしいまや全人口の半分が都会に住みその大半が都会人二世、三世である。彼らにとって都会はまさに故郷なのである。郷土愛、これは多くの人が持つ潜在的な感情である。これまでこの感情が抑えられてきたり捻じ曲げられてきた感がある。例えば帰省である。帰省が美化され喧伝されればされるほど故郷を持たない人間は根無し草のような気持ちにさらされ、生まれ育った土地に素直に向き合えなかった。しかしこれからは胸を張って自分の生まれた土地に愛着を感じ誇りを持てるように働きかけていくことが出来る.それが、住民の望みであり、それが住民の力である。
中央集権から地方分権へ、この大きな流れを正しい方向に誘導できるかどうか、その基盤になりうるのも郷土愛の源泉である街づくりである。街づくり、即ち、歴史と伝統作りである街づくりの基本テーゼが永く愛される建物になるのは当然であり、しかも調和の取れた景観作りであることはいうまでもない。地方自治の健全な発展の為にも街づくりは重要なテーマである。都市計画法の一元的適用の是正が第一になされなければならないと思う。どんな街を作るかは住民の意志が第一に優先されなければならない。ただし、現在の住民は200年後の住民のことも考えつつ行動する必要はある.建物は軽く200年はもつからである。散策、遊歩、タウンウォッチング、散歩、呼び方は何でも良いが、21世紀の楽しみの筆頭に挙げられるような、そんな時代になれば。そして楽しみを提供してくれる街がたくさん出来てくれれば.世の中ももう少し平和になってくれるかもしれない。
ヘ.使用者から
建築の研究四月号の用語考に「家悦び」の解説があった。高知の言葉で、民家の普請に際して、近隣、知人がお祝いの意味で材料や労力を提供したりする事である。普請の折々で酒席となったりすることもある。住宅を作る事は、このように喜びの対象であった。しかも、そこには共同体が存在していた。昔の家作りは、ある種の共同作業で棟梁の仕事を真近で見たり手伝ったりしていた.現在でも白川郷の合掌造りの屋根の葺き替えは地域の人の共同作業である。屋根の葺き替えは約80年に一回なので人によっては手伝うばかりで手伝ってもらう機会がない人もいる。それでもこの風習は連綿と引き継がれているのである。これらの事例を考えてみると、かつては家作りはハレの舞台であり、楽しみの機会でもあったわけで、それがいつのまにか家は買うものになってしまった。作る事に参加する事によってその家に対する愛着はいやがうえにも増加するのではないであろうか。買ったものと作ったものとの愛着の大きさが異なるのは当然であり、買った家が使い捨てにされる事はある意味で当然であるのかもしれない。今、コーポラティブハウスやフリー設計のマンションがはやっているが、ただ見て買う家から何らかの参加型に変わってきているのは至極当然の流れであろう。日本の田舎には、村落共同体で家作りをやる「結」という伝統も在った。
これらの伝統も形を変えて復活させれば家に対する愛着も倍加するに違いない。
よくアメリカの中古住宅は値段があまり下がらないといわれるが、住い手がどのように使ってきたか、どんな手入れの仕方をしてきたかによって実際には大きく値を下げるケースもあるのである。ただ一般的にアメリカ人は家の手入れを確りやるし、それも住民自身でやるのである。それが家を長持ちさせ、愛着をもたせ又手入れに精を出すという好循環に繋がっている。素人でも維持管理に容易に参加できるシステムになっていれば日本人でも家の手入れが趣味や道楽になる可能性はある。障子の張替えなど昔は大掃除の時両親がやっていたのを見た人もいると思う。今でも壁紙などは素人でもその気になれば張り替えられるのである。日本の家屋は本来ふすまや障子等入れ替えが可能であったり、屏風などTPOで取り替えて気分転換していた。畳の表替えなども省資源で出来る住いのリフレッシュ策としては優等生の類であろう。
これまで述べてきたように住い手として住宅にかかわりやすいシステムを用意していただく事を期待するとともに、愛着を持って、確り維持管理されたものとそうでないものとを見極めるプロの出現を期待したい。家の価値を償却年数だけで評価するやり方やひどい不動産屋は家等は10年経ったら取壊し費用が掛かるだけですというのもいる.こういった十把一からげの評価は止めてもらいたい。それと管理状態の良いものを評価しろという意見と食い違うかもしれないが、永く愛して大事に使ってきた御褒美に、30年以上経った家の相続の場合どんなに立派で価値があっても相続税をかけないというのはいかがであろうか。家は個人の財産ではあるが総体で考えれば国民の財産であり、永く愛して健康状態もよく管理してきたことは国民の為にもなる事である。それくらいのインセンティブを与えても良いのではないか.使用者からの提案である。
ト.行政から
行政の責任は国民の生命財産を守る事である事はいうまでもない.そのために法律を整備し規制を設け管理監督する立場にある。これまでは基本的に規制をする事によって目的を達成してきた。しかし今は原則自由の方向にいきつつあるが建設に関する規制は、そんなに簡単ではない。安全に関する事は特に安易に緩和する事は出来ないし、都市計画の問題も安易な緩和が必ずしも良い結果に繋がるとは限らない。安全に対する問題は慎重の上にも慎重にやらねばならないが、新素材や新工法の採用については積極的に取り組んでいただきたい。しかし問題は街づくりに対する規制や援助のあり方である。
この件に関する原則を述べてみたいと思う。これまでは中央集権であり役所は高いところから指導するという発想であったが、これからは住民の気持ちを大切にどうやったら生かせるかという事が原則である。行政そのものが地方分権で地方、地方の個性を求められる時代に住民の意志を極力集約し地域、地域に個性ある発展を促すように努める必要がある。
そして、行政としても永く愛される建物の出現に側面的な援助をして欲しいのである.具体的には、現在の建物に対する減価償却の制度が建物の早めの建て替えが有利になる制度になっており、建物を永く使っていこうという気持ちをそぐ結果になっている。その他相続税が宅地の細分化や、まだまだ使える建物を取り壊して更地にして売却させる事に繋がったり、永く建物を使わせない要因である事はよく言われるところである。又、都市計画の変更や安易な規制の緩和が使用可能な建物の取り壊しに繋がったり、都市の再開発における種々のボーナス制度が良い街並み作りには役立つ事は認めるが、建って間もない建物を取り壊して再開発に取り込んでしまう要因になるとか、永く愛される建物を作る為には、逆に作用する事もある。これに対しては住民の積極的な関与をこれまで以上に認める方向で考えていくしかないと思う。住民投票の多用は議会制民主主義の否定に繋がるという懸念は分かるが、議会と行政だけで進めたプロジェクトの破綻が各所で起きており、適正な住民の意志の確認はこれからもっともっと必要になると思われる。