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目次はじめにT. 何故今永く愛される建物かU. 永く愛されるにはV. 永く愛されるためにW. 永く愛される建物を作る為に提言)X.100年後の街並みY. 200年住宅を注文するエピソード  トピックス『ニューアンドクラフツ』トピックス『建設環境コーディネーター』トピックス 『土地問題と永く愛される建物』トピックス 『NPOと永く愛される建物』トピックス『日本民家に学び直す』永く愛される建物 まとめ」  

V. 永く愛される為に

永く愛される為の条件

1.丈夫で長持ち

   長寿命住宅といえば,まず構造は大丈夫か建築資材は何を使えばよいか。コンクリートは何年もつのか、釘は、ペンキはという事で頭が一杯になってしまう。そしてやはり木造は無理だ。石造りでなくてはとか,日本のような高温多湿の風土では50年が精一杯だなどという声が聞こえてきそうである。しかし本当にそうであろうか。千年家の事や白川郷の事は先にも触れた。そうすると今度は特殊な例さと答えが返ってきそうである。次の実例を紹介しよう。木造が意外にも身体が丈夫な健康優良児である事がお分かりいただける事と思う。鳥取県倉吉市には{伝統的建築群}として指定された地域がある。この指定地域から少し離れたところにある一軒の民家は将軍吉宗の時代,1714年に建てられた。外観は近所の建物と変わらず,今は石州瓦で葺かれた屋根の高さもどうようだが,二階建てが制限されていた当時としては立派なもので,大阪の豪商、淀屋長兵衛の家と言われる由縁である。大屋根は三軒に分かれ、中央には数年前まで経師屋さんが住み、両側はその前から空家になっていた。今は屋根の痛みがひどく、畳もぶよぶよになっている。三軒を貫く大梁は建設当初のもので、その後多くの部分に手を入れて使われてきた歴史の証人のような建物である。現在はガラス窓が入りステンレスの流しも設置され,通りに面した小窓にはエアコンも付いている。適当な設備の更新と入念な手入れすれば木造は200年でも300年でも生活の場として立派に機能する証拠である。
    一方身体が丈夫でも長生きできない場合もある。やはり,山陰地方は松江の話である。ここにはお城や小泉八雲の旧邸などの周りに城下町庶民地区が指定されている。しかし、町人が住んでいた歴史的街並みは歯が抜けたような状態である。住民が生活の利便性を優先して改築の際道路に面した側をセットバックして駐車場にしてしまったからである。東京からきた旅行者がとやかく言える問題ではないが,歴史的景観を守る事の難しさは,このような個人の自由との戦いであり、その土地の人にゆだねる以外方法はない。しかし,ここでも日本の伝統的な民家が芯の強い耐久性を持っていることは残された町屋からも容易に証明されると思う。木造が弱いというイメージが一体どこから出てきたか,その辺に日本の住宅政策が持っていた弱点が見えてくるのではないか。耐火や耐震の解決方法を短絡的にコンクリートに求めてきた政策等にその原因があるのではないかと考えている。

  2.普遍的魅力とは

 永く愛されることを200年間とすると7世代に愛されつづけなくてはならない事になる.一時の気まぐれや流行では愛されて使われつづける事は不可能である。まさに時代を超えて愛されつづけなくてはならない。時代を超えて愛される魅力、それは普遍的な魅力と言わざるを得ないものであろう。そしてもう一つの普遍性は地域を越えた愛され方であるが、それも普遍性の一つといえよう。最近日本の各地に行ってその地方独特の家の作り方がなくなりつつあるという気がする。大量生産の世紀20世紀はプレハブという形で日本の伝統的な家の作り方を破壊した。自由経済の原理や個人の自由の増大が伝統を壊す,これは住宅産業だけのことではない。では新しいプレハブの住宅が世代と時代を超えて普遍的な魅力に富んでいるかという問いに対してイエスと答えられる住宅産業人は多くはないであろう。
    ところが,私見であるが地域を越えて着実に生き残っている和風建築のスタイルがある。簡単に言えば田舎風一戸建とでも言うのであろうか,寡聞にして呼び名を知らない。具体的に言うと,ほとんどの家が切妻や入母屋で立派な瓦屋根であり,二階建てであっても三重五重の庇をつけている。鬼瓦やしゃちほこ,そして平入りの玄関には立派な破風がついている。新しいそういった家は,窓は大抵アルミサッシで,それが,白壁や腰羽目板に調和している。どの家も,精一杯面子をかけて立派さを競っているように見える。都会からはこのような様式は急速に影をひそめているが多少地方地方で違いがあるものの根強い勢力がある。この様式が都会で勢力が弱いのは開発のあり方の問題とプレハブの勢力が強いからだろうと思われる。しかし普遍的といわれれば意外にこの様式は本命中の本命かもしれない。ただこの伝統工法の担い手である大工さんや地方工務店の勢いが日増しに弱くなっていくのは否めない。
  普遍性を考える上で少しでも参考になるかもしれないと思い2,3のこばなしを書き添えておきたい。
一つは音の問題である。元、日仏学院院長の話であるが,詩人でもあるプジョール氏は踏み切りの警報機の鐘の音を詩の中で東京の音風景の一つに挙げて詠んでいる。我々日本人は普遍的にあれは騒音以外の何者でもないと思いこんでいる。もう一つはやはりフランス人の友人の話であるが,都内の商店街に連れて行ったときのこと。その商店街は何々銀座と名のついた典型的な我々から見たらごみごみした商店街なのであるが、彼は「この街はリュ・ド・ビュッシ
(パリ・ラテン区の商店街)より素晴らしい」と叫んだのである。我々のあまりに身近な、ある意味では猥雑と思っている風景がフランス人にとって強い魅力を持っているとは。単に異邦人の東洋趣味とはいえない新しい発見をさせられた思いがした。それと同時に、東京わが街という実感を改めて感じさせられた出来事であった。
     普遍的魅力とは」という難しいテーマに所詮、結論はないと思うが、あえて技術者的発想で言えば,その応えは過去から現在そして近未来という時間軸の延長線上にあるということであろう。一時の受けや奇抜さを売り物にしたものはいずれ廃れてしまう事を歴史は何度も証明してきた。名著は時間の篩にかけられて名著になる。これ以上は,後世の人にゆだねるしかないのであろう。

3.社会的な意義

 社会が進歩するという事に対してどのようなイメージを持つのであろうか。社会が発展しているという事はどのような時に感じるのであろうか。20世紀の工業化社会では都市化が進み高層ビルが立ち並び,高速鉄道や高速道路が張り巡らされている。その様な開発優先型のもたらす街並みや風景をイメージして発展した社会という捉え方をしているのではないか。建物が200年ももったら,200年後の街並みは停滞の象徴のような街並みになってしまうと感じる人もいるかもしれない。しかし、建物の価値は一体何で測られるのであろうか。住宅で考えてみるとその期待されている機能は次のようなものであろう。まず、雨風から守ってくれる事。ゆったりと休息できる事。財産を守ってくれる事。その他個人的な期待はそれぞれであろうが、もう一つは住宅を取り巻く環境が良い状態で保たれている事を挙げる人は多いと思う。即ち建物は単独では考えられないのである。工場地帯に住宅が侵入してきて前から存在していた工場が移転を余儀なくされたという話は多い。永く愛される建物を実現する為のもっとも大きな要因が,物理的な材料や構造の問題でなく社会的な問題である事に気付かされる。日本の建物の使用年数が短い主な原因は構造様式にあるのではなく社会がこの何十年まだまだ安定していなかった事にある。それと我々の考えが冒頭に述べたようにより高度に開発された状態を社会の発展と捉えてきた事,もう一つは日本人の中に新しい事を非常に評価する性癖があることなども原因として挙げられるかもしれない。過去の高度経済成長の時代には、いやバブル崩壊後もいまだに経済成長の指数にしがみつき,その数字に一喜一憂してきた。そしてその典型が住宅着工の戸数に対するこだわりであり,そのこだわりを前提に住宅産業も建設業も経営を考えてきた。だから戸数が減る事即悪なのである。国民の希望が本当は中身にあることを忘れて。数ではなく中身なのである。例えば着工数が半分になっても倍の広さを求めているのかもしれない.そして,寿命が5倍になれば実際の国民の負担は減ることになる。後は長期ローンでも税制でもその方向に沿った改革を進めれば良いのである。売上半減となる住宅産業は更なるリストラを余儀なくされるかも知れないが。そうすれば落ち着いた街並みが出来、都会も故郷になりうると思うのである。かつて故郷創生を唱えた政治家がいたが,いまや国民の大半は都市部に住んでいるのであり故郷は都市なのである。その都市に育った子どもや、かつて子どもだった中年の人達の母校である小学校や中学校がどんどん無くなっていく現実を放置して,全国一律に創生資金をばら撒くなどという発想は現実無視と言わざるを得ない。話がそれたが,永く愛される建物の必要条件の最大のものは,個別の建物に関する条件ではなく,その建物を取り巻く社会的な条件である。環境,税制,土地利用,都市計画,防災等、社会的な条件が複雑に絡み合ってくる。社会の階層や,哲学までもが街並み作りに関わってくるのである。逆にいうと理想的な街並み作りや永く愛される建物作りの実現の努力は理想的な社会作りに通ずるものなのである。それだけ難しい問題である事も事実であるが。


ロ.永く愛されない理由

1.身体が弱い

 人間の場合身体が弱いという事は長生きできない大きな条件である。ただし臓器移植が可能な現在,状況はいささか変化している。臓器移植まで行かなくても人工何とかという機械が発達していて多少の機能不全はカバーできるようになっている。建物の場合は部分的に取替えは基本構造の部分以外は大抵可能なのであるから,身体が弱い即短命とは限らない。しかし,基本構造部材だけは十分な強度と耐久性が求められる。その辺の配慮が今話題のスケルトンアンドインフィルの発想である。逆に完成後使用を続ける段階で手直しや改装をして手を加える事は愛着を増す事になるかもしれない。ただし雨漏りがひどいとか、シロアリにやられたとか,一挙に愛想が尽きるという事もありうる。私の友人でも別荘に何度も鳥が入り込んで死んでいて原因がわからず建て替えた人がいるが,基本的に満たしていなければならない要素はある。
丈夫で長持ちのところで述べたように、日本の伝統的な木造今でいう在来工法は基本的に十分な耐久性を持っている。しかし,一挙に愛情をなくさせるような問題を起こさない様に,例えば多少の難点があっても痘痕に笑窪ですむように作られていなければならない。シックハウスのような問題や湿気対策不全などは決して起こしてはならない事柄であろう。住む人の健康を守るのは住宅の場合基本的要件であるからである。
   その他,広さが足りない事や天井が低い,窓が少ないなどは身体が弱い類であろう。永く愛されるには,大は小を兼ねる的な発想も必要である。日照の問題は,絶対的条件ではないが,健康的な住まいには必要なことである。

「閑話休題」

 健康について

これまでの,高度成長化における,右肩上がりの世の中では(健全なる精神は健全なる肉体に宿る)といわれ,身体が丈夫なことが美徳とされてきた。身体が弱いというのは社会生活に支障をきたし、あたかも人間的な欠陥があるように思われてきた。日本人のお祈りの代表的な言葉が家内安全,無病息災であるのも何の疑問も抱かれず続いてきた。また、一方,一病息災という言葉もあり絶対的な健康過信が必ずしも長生きにつながらない事も事実である、高齢化社会の生き方は病気とうまく付き合っていくのが正しい生活方法であるとの事である。建物もバリアフリーやユニバーサルデザインが求められているのもその流れであろう。今の時代(健全なる精神は,健全なる肉体に宿る)という言葉は完全に死語である。病気や障害をもったお年よりの精神が病んでいると誰が言えるであろうか。「五体不満足」の作者音武君の精神が如何に健全であるかは誰も否定はしないであろう。病んでいるのは五体満足ないろいろな事件を起こした17歳の人達である。音武君以外にも、障害にめげずに明るく生きている人は多い。
「障害があることは不便である。しかし,不幸ではない」へレン・ケラー
  さて,建物に戻るが,建物が弱い即ち欠陥がある,不具合がある,という事になるが、人間でも定期健康診断が必要なように建物も3万点の部品からなるといわれる住宅であるから中には耐用年数の短いものもある。従って定期的なチェックは欠かせない。アメリカの場合,外装のペンキは最低10年に一度は塗り替えるという。メンテナンスの良し悪しが建物の寿命に大きく関わってくる事は人間の健康維持の場合と全く同じである。特に人間なら不具合が発生すれば大抵の場合自覚症状が出て医者に掛かるが,建物の場合自覚症状なしに老朽化が進む事が多く,定期検診の大切さは人間以上といっても過言ではない。しかし,人間の場合も建物の場合も,本人に直す意志がなければどうしようもない分けで、最終的には愛情の問題に帰着する。結論としては建物は身体が弱くても愛されてさえいれば長持ちできる。住宅の平均使用年数がイギリスの4分のT,フランスの3分の1強という事は社会的条件も含めて日本人は住居に対する愛情が薄いのか、単に新しい物好きなのか。もっと深く突っ込んだ研究が必要である。

  2.魅力に乏しい
  魅力的な空間というものを考える事は出来ても,魅力に欠ける条件を思い浮かべるのは楽しくないし難しい。よく考えてみると、最初から魅力のない建物を作りたがる人はいないの であるから,結果として魅力のない建物になったか,第三者 にとって魅力がないかのいずれかであろう。欠陥工事は前者であり,独断的な設計や、奇をてらった場合などは後者であろう。又,人の好みは移り変わるものであるから,時の経過とともに魅力が薄れる事もある。魅力のもとが何であるかは非常に難しい。建物を後で変えられるなら変える方法もあるであろうが出来れば最初から普遍的な魅力を備えるほうが望ましい。しかし時代の要請ということもあるから変化に対応可能なものにするほうが良いかもしれない。ここで保存される建物とそうでない建物とを考えてみる。魅力の基準はないが保存の基準はあるであろうから。
 世界的な建物保存運動の先駆者であるナショナルトラスト運動の方針を見てみよう。日本のナショナルトラスト運動は次の七つの原則を持っている。ナショナルトラスト運動の場合、建物ばかりでなく天然自然の保護もあるから、そのまま建物の保護の原則にはそぐわない面もある。

1.住民の自発性を尊重する。

多くの人が残す為の行動を起こす。力のある個人ではない。

2.公益性を堅持する。

収益事業を否定はしないがその収益は本来の保護運動のために使われる。

3.公開の原則。

ナショナルトラストは国民的運動であり、その門戸は常に広く開かれている。多くの人の共感を得なくてはならない。

4.参加者の権利保護の原則

善意を無駄にしない、厳しい内部規律と慎重な行動。

5.保護には維持管理も重要な活動である。

6.住民運動であるナショナルトラスト運動であるが自治体の活動との協力体制の確立。

7.他の保護団体との協力体制の確立。

以上であるが魅力のあるなしはどれだけ多くの人の共感を得られるかという事である。もう少し具体性のある保存の為の原則を見てみよう。ナショナルトラスト法が制定され相続税が減免される事になると多くの歴史的建物の所有者が寄贈を申し出た。しかし維持管理費の捻出に多額の資金が必要となるのでナショナルトラストは厳格な選別方針を出した。それは次のようなものである。

1.その財産が国民的重要度を持っていること。

2.歴史的にも美的にも優れている事。

3.多くの公衆がそれを訪れるであろう事。

4.十分な維持費をそれ自体が生み出せること。

ナショナルトラスト運動は現実に立脚した運動である。寄贈を受けた建物は30人ほどの専門補修員と契約がなされ、それらの建築家はウイリアム・モリスの保存理論(修復より保存を)にのっとって確りと建物を保存している。この場合もキーワードは多くの人の共感である。結局魅力の定義はないが、魅力を感じる人の多いものが魅力的であるとしか言い様がないのであろう。

  3.社会的な環境
 
  再開発を専門にやっている会社の人に聞いた事がある。転居をしてもらいたい人をくどく何か決め手になる方法があるかどうかについてである。我々素人は多分お金であろうと想像する.しかし本音かどうかはともかく、答えは違っていた。会社の公式見解かもしれないが、粘り強くお願いする事であるという。お金では際限がないし,大きく崩れる原因になるという。そして最後は周辺の関係者の作り出す空気であるという。勿論その様な空気を作るには社会的意義のあるプロジェクトでなければ基本的に難しいが。この事を逆にいうと都市の再生という大義名分の前には個人の思い入れなどはあまり効果がないといえる。従って,大きな力に対しては個人で永く使う事が正しいと思っても抵抗するのが極めて難しいという事である。平均使用年数を延ばしたいなら都市計画の安定性と街ぐるみの取り組みが欠かせないということである。頻繁な都市計画の変更などは百害あって一利なしという感じである。そして土地政策を経済政策の手段に使う事、相続税を普通の住宅にまでかける事,事業関係では償却という考え方など、残して永く使うことに障害となる社会制度が多く存在する。又,住宅が開発されてからの道路整備なども愛していても残せない要因の一つである。今,街づくりのNPOが盛んであるが、これまでの行政が機能しないのなら一つの方法である。そして,空気に弱い日本人の大敵は,古い家に住みつづける事に対するいわれ無き恥じらいである。古い家を大切に永く使いつづけるという価値観がまだ定着していない現在、新築の家を建てるのが男の甲斐性のように思われている状況,空気に抵抗する事はかなり勇気がいる。この事に対して支援できるのはやはり前述のNPOなのかも知れない。
    それから,よく起きる事であるが,既存の迷惑施設が後発の住宅開発のために移転を余儀なくされるケースである。犠牲になるのは迷惑施設のほうであるが,平均使用年数を押し下げる事は間違いない。最近は脱ダム宣言などで例は少なくなっているが,ダム開発による水没家屋なども愛されながら廃棄されるケースであろう。その他,火災や水害による被害なども数値を悪化させる原因である事は間違いない。しかも,都市部では火災原因の2番目が放火であるとの事である。なんとも悲しい現実ではある。水害のほうも戦後の一時期よりは少なくなったが,最近は都市の中小河川の氾濫が多発するようになった。緑のダムの発想が必要かもしれない。又忘れてはいけないのは地震災害であるが,これは免震、制震などの新工法と、新しい建築基準法の適用でかなり成果が上がるであろう。いずれにしても永く愛される為に社会的な取り組みが欠かせないことは事実であり、建物の物理的強度よりも重大な問題である。