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目次はじめに T.何故今永く愛される建物か U.永く愛されるニは V.永く愛されるために W.永く愛される建物を作る為に提言) X.100年後の街並み Y.200年住宅を注文する エピソード   トピックス『ニューアンドクラフツ』 トピックス『建設環境コーディネーター』 トピックス 『土地問題と永く愛される建物』 トピックス『NPOと永く愛される建物』トピックス『日本民家に学び直す』 永く愛される建物 まとめ」  

T.何故今永く愛される建物か

心の問題から

 永く愛される建物が実現する事によって何かが変わらなければ意味がない。建物を住宅に限定して考えた時、住宅は何を我々に与えてくれるのだろうか。
十数年前、海外に向かう飛行機の中でふと考えた。窓の外は一面の土獏で、一時間以上その景色は変わらなかった。もしこんなところで飛行機が落ちて、幸運にも助かったとして生き延びられるであろうかなどと柄にもない事を考えた。その時、普段は何気なく考えていた日常生活が如何に得がたいものであり、特に住宅の存在が心の安らぎに如何に大きな存在であるかに気づいたのである。現代生活というものが色々な物に支えられ、それらのものもお金さえ出せば、それこそコンビニで何でも手に入る時代に生きている我々に、心のよりどころになるものとは何であろうか。勿論家族しかり、地域社会や国家も時にはそんな存在足りうるかもしれない。しかし、意外に心に浮かんでくるものは永く住み慣れた家そのものなではないだろうか。子どもの頃から住んでいれば、背比べの柱の傷も、散々しかられたいたずら書きも、飼っていた猫の爪跡もそれぞれ強烈に懐かしく心を慰めてくれるのである。家とはまさに生活そのものであり、人生の思い出、即ち過去の人生そのものなのである。実はこれまた私事であるが最近引越しをした。22年住んだマンションが再開発にかかったのである。全員が退去し来月には取り壊しに入る。引越しを終えてがらんどうになった我が家を見て感慨深かった事は言うまでもない。3人兄弟の下の二人は家と言えばこの家しか知らないのである。下の娘が俄かに写真機を取り出し家の中を撮り出した。引越しの後で壁や床は22年の垢と埃で汚れ放題、写真をとってもしょうがないと諌めたが一向にやめる気配はない。自分のよりどころがなくなってしまう。取り壊されたら思い出だって薄れていく。自分の過去が薄れていくような気がするというのである。考えてみると22年という月日は建物の寿命としては実に短い。しかし人間の人生からすれば4分のT強の長さである。子どもにとっては全人生なのであろう。後何年かたって、ここを訪れた時全く違った景色になっているとしたらなんと感じるであろうか。創造の為の破壊だといっていられるであろうか。日本人は住むという字を人が主と書いてきた。確かに人が主ではあるが最近はその辺に疑問が残る。不動産の証券化とか市場価格最優先とか人が主ではなく金が主になってしまっている。そして住む事の形も大きく変わった。文化住宅という箱になってこの方、小さな箱に入りきらない生活はどんどんアウトソーシングされ、家の重さが軽くなってしまっている。出産が産院にゆだねられ、教育は学校に、看病は病院に、結婚式はホテルや式場に、葬式はセレモニーホールにと次々に外部に出され、老後は姨捨山ならぬ老人ホームに行くことが現代的だとされている。小さな箱になったがゆえ、人生のかなりの部分を、家から切り離してきた。それでも家は人生劇場の表舞台である。裏舞台は、家から切り離された生活のさまざまな空間である。そして、いまや裏と表が時間的にはひっくり返りつつある。この事が過去の家の持つ意味と現在の家の持つ意味を根本から変えてきた。我々はこれを元に戻せといっている訳ではない。しかし、狭いから出来ないという部分は家を広くしてこれを取り戻す必要がある。家を広くし色々な要素を取り込んで永く使い込んで愛していけば家はそれに十分応えてくれる。家を生活の場に取り戻す。寝に帰るだけの場所から生活の場所へ、そのための十分広い空間を作り出す。その事を経済的に成り立たせる為にも心のよりどころとして、より多くの思い出を積み重ねる為にも、永く愛される建物が必要なのである。
 日常生活が表舞台から姿を消し、家族からも切り離されていく過程の中で、家族関係の希薄化という崩壊の兆しがだんだん強くなり、家庭の役割の重要な部分が欠落し始めた。この事が、最近の劇場型犯罪といわれるものや、動機無き犯行といわれる惨劇の原因であるといったらこじつけが過ぎるといわれるであろうか。家が小さな箱になって、核家族化が進み育児ノイローゼやそれによる児童虐待、家庭内暴力、不登校、学級崩壊さまざまな現代社会の病根がやはり、小さな箱のせいであり、切り取られた生活部分の欠落にあるといったら。
 少なくとも3世代が同居できる家、長生きの時代4世代住宅もありうる。現代生活があまりにも完璧に過去から切り離され、便利さ、快適さを求めた結果が現代の世相にあると強く主張する。

 

文化の醸成に向けて

子どもの遊びから積み木細工が消えて久しい。今はロゴに替わっているのだろうか。今の子どもは昔の子どものように作った積み木細工を何度も何度も作っては壊し作っては壊して遊ぶのだろうか。ロゴは壊さないでそのまま置物にしておく事もある。気に入ったものが出来れば残しておきたくなるのが人間の自然な感情であろう。このようにして多くの建築物も残されてきたのであろう。大昔の横穴住居から竪穴住居へ、次第に床を持ち屋根を高くし、人類は少しずつゆっくりとデザインや建設技術を進化させてきた。それが文化として大きく花開いた時もあるし、20世紀のように戦争の世紀と呼ばれ大半を破壊に費やした事もある。しかし多くの爛熟した文化は後世の人に保存の努力を自然な形で仕向けてきた。そしてその自然な働きが最近衰えてきたように思えるのは我々だけであろうか。ロマン派の音楽の後、色々な現代音楽が生まれてはきたがその流れは急速に細くなってしまっている。
建築界でも、残され受け継がれていく現代建築というものの流れが極端に細くなっているのではないであろうか。いや寧ろ建築から残すもの、残るものという発想が希薄なのではないだろうか。永く愛される建物の必要条件である多くの人に愛されるという条件を設定し忘れているとしか言い様のない奇抜なデザイン、構造のものが多い。文化は刹那的なものではない。普遍的なものであるべきである。独断といわれようが、実際永く残されてきたものの大半は多くの人の共感を得てきた普遍性のあるものである。環境問題から建物の長寿命化が必然であれば、そのためには単に長持ちさせるのではなく文化として後世に伝承する価値のあるものにしなくてはならない。それは単なる住宅であっても然りである。貴重な人類の文化遺産として実際に使われながら残されていく。これが,長寿命化住宅の理想である。勿論その真の文化的な住宅の使い手も文化的であって欲しいし、そうなるような自然の力を備えた住宅であって欲しい。ヨーロッパの古い街にはオールドタウンとニュウタウンがある。年代の差があることはあるが,どちらも大切に保存され、しかも両者には隔絶ではなく歴史の連続性を感じさせるものがある。翻って日本のニュウタウンや再開発があまりにも周囲と異質なのは何故であろうか。戦後のこの50年に原因があるのか,はたまた,現在のデザインに問題があるのか。いずれであっても、これから残せる建物、残る建物で次第に街を作っていけるように場合によってはリセットボタンを押さなくてはならないかもしれない。勿論このリセットボタンはこれを最後としなければならないが。