建設産業の収斂
20年程前のことになるが,今は国土交通省と名前の変わった建設省のさる高官と話をさせていただく機会があった。建設省が一番輝いていた頃である。確か何かの陳情ではなかったかと思うが,君たち地方業者はその地方の基幹産業の担い手なのだから頑張って貰いたいと言うような話ではなかったかと記憶している。確かに地方に行って他にめぼしい産業がなければその当時(今でも)建設業の経済的ウエイトは大変大きなものであったに違いない。ただただ,その日暮らしのような地方業者にそんな自覚は当然なかったので,よく覚えている。その頃は公共工事はどこでも引っ張りだこで、歓迎されていたし,現在のような財政問題もまだ顕在化していなかったので予算を握る建設省の力は実に大きかった。雇用対策でもあるといわれたことも記憶している。 さてそれから約20年,建設省もなくなり国土交通省となって,公共工事もいろいろなところで批判にさらされている。実はこんなことを思い出したのは,最近あるところで次のような勉強をしてその事を思いだしたからである。それは建設業の将来のことである。.建設産業は社会が成熟すると,その規模がある一定の値に収斂していくというのである。対GDP比率でも産業の就業者人口の割合でも先進国の成熟した地域は同じような値になるということであった。正確な数字は手元にないがおよそ日本の現状の二分の一程度であったと思う。即ち,日本の建設産業はごく近い将来経済規模が半分になるということである.。これに類することはこれまでも言われてきた事であるがこれほど目前に迫っている事態とは思いたくもないとて、なるべく遠くに押しやってきたのではないだろうか。しかし,産業規模の縮小化が避けられずおよそ半分に向かって収斂していくのが事実ならば、産業側としてもその収斂の曲線にあわせて規模をうまく縮小しソフトランディングを図らなければハードランディングでは大変な混乱になり、ひいては建設産業の疲弊につながる.。そのことは国民経済にとって決して良いことではない。ここは官民一体となってソフトランディングのシナリオを書き実行していかなければならない。
その為には特に業界団体のリーダーシップが必要であり,特に痛みを伴う場合は重要である。悪貨が良貨を駆逐するような整理のされ方はどうしても避けなければならない。特にダンピングやそれに伴う疎漏工事は国民の信頼を裏切り,この地球環境時代に資源やエネルギーの無駄につながる可能性が大である。この建設物の品質の問題は収斂へのシナリオの中で最重点課題である。建設物の長寿命化は時代の求めるところであり,その期待に応える建設システム作りが、私見ではあるが建設投資半減時代へのシナリオになりうると考えている。イタリヤは職人の国といわれているが,イタリアには色々な上質の工芸品や実用品が今もって職人の手仕事で持って時代を超えて愛されている。建物にしても古いものを大事に使っていく電灯とそれを支える職人技が残っている。環境を配慮しない経済システムの中では単なる不経済非能率かもしれないが、省資源,省エネルギー対策の一番は永く使うことである。ながく愛されるものを作ることである。こういったもの作りの精神は日本にもあったし、現在でも寺社建築などに残されている。このようなシステムに徐々に切り替えていけば建設投資半減時代でも血で血を洗うような生きるか死ぬかの戦いでなく,お互いの特色のある分野で職人技を発揮し棲み分けていくことも可能ではないであろうか。
もの作りの教育も含めて変えていけば、即ち大量生産大量消費を前提とした技術教育から多品種、少量、高品質生産のシステムに変えていけば現在の建設産業のかなりの人は,建設産業で仕事を続けることが出来るのではないであろうか。それには発注者も含めた多くの人の理解と発想の転換が必要となり,ここでもまた業界団体のリーダーシップが欠かせないところである。この際は産学官一体となって、環境問題を梃子にして抜本的な方向転換をしていかなければならない。私共、第4セクターであるNPOも三者のどの立場にも立つことなくこの転換のお役に立ちたいと考えている.特に発注者である消費者に公平な意見を率直に発言できるのは我々が最適任であろうと自負している。この転換はまず教育界から始める必要があり、今話題の、ものづくり大学などはこの転換の先駆者になってくれることを期待したい。そして、若者が夢と期待をもって参加してくる産業に一日も早くしてゆきたいと考えている。建設環境情報センターは建設倫理の確立という新しいテーマをもとに去年設立されたところであるが、建設倫理の言葉はともかく目的は発注者を含めた建設に関係する全ての人々が合理的な環境の中で日々を過ごせるように願って活動を開始している。とりあえずは、インターネットで建築の無料相談を開設したが、建設環境倫理セミナーを開催して直接消費者に働き掛けて行くつもりである。
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