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 土木工学からシビルエンジニアリングへ

今、土木工学が揺らいでいる。何年か前,この揺らぎを感じた土木学会で、この伝統ある土木という名前を変えようという議論が高まった事がある。結局は土木という名前は変えることなく今日に至っているが、実態のほうはかなり早いスピードで変わっている。そもそも土木工学の土木という言葉は中国の故事「築土構木」という言葉から来ている。(土をつき固め木を組んで足場を作り建造物を建てる)という意味である。そこにはシビルエンジニアリングの持っている高い理想や使命感が伝わってこないと感じるのは筆者の感受性の低さからか。「築土構木」という言葉からは乾いた技術論しかイメージが湧いてこないのである。ここに現在土木工学がつき当たっている壁の根本原因があるのではないだろうか。グローバル化の波は教育の世界にもエンジニアの国際化と共に否応なしに押し寄せている。
エンジニアの資格を世界共通のものにしようという動きもあるし、既に色々な経済ブロックの中では共通化が図られている。この動きはもはや止められないが厄介な事にグローバルスタンダードを造っているのは日本ではない。従って共通化と言っても日本のやり方は通用しない。日本が西欧のスタンダードに合わせていくしかないのである。そして西欧のスタンダードはシビルエンジニアリングという発想が基本にあると考えなければならない。具体的にいえば土木の技術論からシビル即ち文明の基礎を作るという発想に変えなければならないという事である。いや土木という言葉にも社会基盤造りという使命観の中に同じ意味があるという反論が出そうである。確かにそうであるかもしれないが,実際に土木工学のこれまでの教科に単なる技術者教育以外のカリキュラムが現実にあったかと問われればどう答えてよいか分からない人が大半ではなかろうか。今,教育のグローバル化の中で求められている“人類の幸福や福祉について考える能力や素養“とか”技術者倫理“とか”国際的なコミュニケーション能力“などはこれまでの大学教育ではまともに取り上げられてこなかったと思う。そして今、一番反省を求められている環境問題に対する対応も全くの後手に回ってしまってきた。これらの問題点に気付いている人は多いのであるが土木学会が名前を変えなかった様に行動に移した人はこれまであまりにも少なかった。しかし現在ではそんなのんきな事を言っていられないと思ったのか、かなりの学校で学科の名前を変えているところがでてきている。従来の土木工学科から環境工学とか都市工学とか衛生工学などと改名する例がそうである。昔から名は体をあらわすというから内容もそれなりに変わっているのであろうが,問題は実際の中身である。
 シビルエンジニアリングという発想からしか脱ダムの発想は出てこないと思う。技術者馬鹿を作ってきた日本の教育に求められているのは、このような、極端な事をいえば180度の転換に近い事柄なのである。例えば,一生懸命造った橋やトンネルが税金の無駄遣いといわれるようなことを避けるにも建設技術者は社会性も期待されているという自覚を持たなければならない。技術者倫理に関わる欠陥工事や手抜き工事は論外である。これらの事を含めて技術者にかかる責任の重さは、これまでのような教育を受け、会社という組織に投げ込まれて考える事をやめてしまう技術者には認識する機会がなかったかもしれないが,グローバル化した技術者社会の中では大変重いものであり,今までのような甘えた状況は絶対にない。それらの事もこれからの学校教育では技術者教育の一端として担わなければならない。建設需要が減少し技術者あまりの状況が迫ってくる中で,技術者教育の成否は教育機関の生き残りをかけた戦いになりつつある。要は土木工学が自然科学の応用分野オンリーであったものを社会科学の応用分野の要素をとりいれる必要があるという事である。