住宅金融公庫が果たしてきた役割
小泉改革で住宅金融公庫の廃止が決定されている。金融市場の自由化いわゆるビッグバンの進展と共に色々な機関の見直しがなされ、それぞれ廃止や、民営化、独立行政法人化など様々な変化がおきている。時代の変わり目と共に必要なものが不必要になったり、ニーズの変化は止むを得ないがその変革のさせ方には十分な検討が必要である。郵政三事業の民営化はそれこそ侃侃諤諤の議論がなされており結論がどうなっても議論が沸騰した事は良い事である。道路公団の改革にしても中途半端な感じはするが一応の結論を見たわけでこれからの実施段階での注意を怠り無くすれば良いと思う。
さて、表題の住宅金融公庫の場合であるが、国民の住宅取得への欲求は消滅したわけではないから、民間への事業の開放策として行われると理解できる。この基本的な考え方に異論は無いし他の事でも民間が出来る事は民間に任すという方針に何ら異論はない。他にも役割を終えた官業は数多あり、民間に任せられるものはどんどん民営化すればよい。しかしその判断は大いに慎重を要する事柄もある。住宅金融公庫の場合、基本的に二つの機能を有していた。一つは言うまでも無く住宅金融である。民間ではこれまで産業用の資金需要が旺盛で資金が足りず、庶民の住宅資金まではまかなえず国の施策に頼らざるを得なかった点があり、言うなれば公庫融資は住宅金融の庶民版であった。そしてその部分は確かに日本経済の高度化、成熟化にともなって民間に資金がダブつき国がでる必要はなくなった。現在大手都市銀行も住宅ローンには力を入れており、低金利での貸出競争が起きている。これはまさに競争原理のプラス面で利用者にとっては朗報である。しかしもう一つの住宅金融公庫の役割が忘れ去られている.それは、良くも悪くも、公庫基準の適用という住宅標準に対する一定の評価基準を持っていたということである。あまり大きすぎずまた小さすぎず標準的な家庭の必要とする、適度なサイズの住宅を融資の対象にしてきた。公庫基準というものがある程度の住宅レベルの維持と向上に果たしてきた役割は無視できないであろう。しかし、現在の民間金融機関の融資審査にその機能は全くと言って良いほどない。その家を担保にするのだからその家が優良な担保価値を有する家かどうかは重要なポイントであるはずなのに、審査は借入者の返済能力に相変らず重点が置かれている。銀行にしてみれば金利と元本を確り返してくれれば担保の執行などしたくはないのだからこれは当たり前の事かもしれない、しかし、国民の良好な資産を形成していくという観点からは一考の余地があるのではないか。考えてみれば家は永久的にその個人が使うものではなく、この地球環境の時代、三世代や四世代は使っていかなければならない大切な共同資産である。金さえ出せばどんなものを作っても良いわけではない。アメリカのモゲージの考え方からすると一般性のない建物はモゲージの対象にならないという事である。建物は公共的な資産であり普遍性が求められるという基本的な考え方があるからであろう。
この、二番目の住宅金融公庫の機能を誰かが引き継ぐ必要がある.いや、もっといえば良好な資産作りのためのある種の仕掛けがなくてはならない。それは本来融資をする金融機関が果たすべき役割なのであるが、今の日本の銀行には期待し難いというべきであろう。これまで土地本位制に金科玉条のようにしがみついてきた過去からそんなに簡単に変われるとも思えないからである。若し金融機関が本当の意味での資産評価をやるとしたら技術的な背景もさることながら、良好な資産とは何かという定義から始めなくてはならない。住宅の品確法がその役割を担うという意見があるが、品確法は建てる人の自由で採用されるかどうかが決まり、住宅金融公庫のような審査という強制力はない。目的は同じかもしれないが機能は全く違うものである。この問題の真の解決策は消費者の認識の変化即ち良好な資産作りが結局は得になるということを解ってもらうことであるがこのことが結構難しい。産業側はスクラップアンドビルドで需要を喚起してきた面があり急には変われない。とすれば何らかの規制をかけることになるが、この規制緩和の時代にそれは逆行する事になり、やはり金融機関の審査体制に期待するのが本当のあり方かもしれない。その方法としては金融機関に品確法の適用物件をより高く評価するようにするとか中古物件の場合はメンテナンスの状況データを精査するとかが考えられるが、難しいであろうか。実は、現在の住宅金融公庫はこのメンテナンスのデータの登録制度をやっているのである。住宅金融公庫の廃止は止むを得ないとしても残すべき機能は確り国民のために考えてもらいたいものである。
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