建物の長寿命化を考える
地球環境時代に建物の長寿命化はすでに常識である。その為の種々の方策が各所で行われている。議論の段階まで考えれば建設関係者の全てが賛成している状況であろう。総論賛成である。では実際はどうなっているのであろうか。現実の問題としては,俄かに建物の使用年数が飛躍的に伸びたという事は聞いていない。むしろ長寿命化の動きが短期的には建物の平均使用年数を短くする面もある。というのは現状の建物を耐震性や耐久性で見直した場合,この際、長寿命化を考えて建て直したほうが良いという結論になる事もあるからである。今不動産の証券化が進行しておりこの影響はかなり大きなものがあると思われる。この事も良好な資産の形成即ち、長寿命化につながればよいと思うが、短期的にはまだまだ使用できる建物の建て替えにつながり平均使用年数の低下の原因になりかねない。これらの現象と都市の再開発の動きも、土地の有効利用の観点からは結構な事ではあるが、まだまだ使用可能な建物の建て替えにつながり、これまた平均使用南数の低下に働く事が多い。このような状況をどう考えるかは別にして、現在のような変革期に平均使用年数即ち、平均寿命を指標として捉える事が良いのかどうか、一度考えてみる必要がある。人間の平均寿命に対して平均余命という指標があるように、現状の建物の平均余命が出せれば、新しい動きが捉えられるかもしれないが、言うは易くの類であろう。
この稿で述べたいのは上記の事ではない。これまで日本で建物の平均使用年数があまりに短いのはどうしてであろうかと考えてみたかったからである。地球環境時代に家電その他でリサイクル法が施行されている状況の中で建設物のリサイクルも考えられてはいるが、リサイクルの前に建物の場合は長期使用がより良い事は自明の理である。それなのに建物の平均使用年数は30年を超えるのがやっとであるという事は何かが間違っているのであろう。この問題を言うと多くの人は、日本の建物は木造で、イギリスなどの平均使用年数の永い国の建物は石や煉瓦造りで構造様式が違うからであろうと簡単に片づけてしまう。気候風土やそれに伴う構造様式の違いは確かに大きいが、もっと大きな要素があるのではないかと考えている。例えば、木造でも千年を超える建物は枚挙に暇がないし、石づくりでも簡単に廃墟になってしまうものもある。形として残る事と、永く使用されることとは全く違うのではないか。永く使われるという事は即ち永く愛されるという事なのではないであろうか。愛されている建物は土地の有効利用という名目の都市再開発にも、経済最優先の不動産の証券化の波にも飲み込まれる事なく、生き残りつづけるはずである。一番の問題の地震や台風などの災害にも補強や防災の対策がなされて生き残っていく事が出来る。それは人間の営みのもっとも高度な部分である文化の問題にも関わってくる事柄である。勿論一般の住宅や事務所、工場にそんな議論は持ち込めないが、街並みという事まで考えれば、文化の形成という視点も欠かせないことに異論はないと思う。外国には街並みそのものが貴重な文化遺産として継承されている場合が多いが、日本でも岐阜県の白川郷など例がないわけではない。こうして考えていくと日本の建物の使用年数が欧米に比べて極端に短いのは、気候風土の問題よりは、文化や社会制度の問題である事がわかる。例えば、欧米では多くの戦災都市が戦前の街並みの復旧に力が注がれたが、日本は実需を満たす事を急ぐあまり復興という視点はあっても復元という視点は全くなかった。従って個人のてんでばらばらな思いで建設がなされ、街並みに対する長期的視点や特に外観は公共のものであるという認識がなかった。そして建物の多くは建てる人の自由であり、当面のニーズが満たせれば、雨露が凌げればという考え方が大半であった。最初から永く使うつもりはあまりなかったのである。それからすでに半世紀、新しい考え方、発想でものづくりをすすめていかなければならない、愛され続ける建物中で愛する人々と暮らしつづける,そんな暮らしが素敵に思えるような社会になっていけば、おのずから建物の使用年数は飛躍的に伸びていくと思う。では愛される建物とはどんなものであろうか。これはこれで大変なテーマであるので他稿に譲る事にしたい。
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