国立・高層マンション判決の投げかけるもの
昨年、12月18日、画期的な判決といわれるものが東京地裁で出された。新聞各社はいっせいに第一面でこの判決を報じた。概ね、この判決を好意的に報じるものが多かった。この判決の詳細は知らないが新聞報道によれば、この高層マンションは国立駅前の「大学通り」に面した高さ44メートル、14階建ての高層マンションで、判決は通りに植えられた桜や、銀杏並木からはみ出す7階以上を取り壊せというものであった。また、近隣住民にも景観疎外に対する賠償金の支払を命じるものであった。確かに上だけ壊せという判決はこれまでに無く予想外の判決で、景観の価値が司法の場できっちりと認められた画期的な判決であるといえる。
景観の価値がこれまでも争われた事が無かったわけではない。しかし、これまでの判決は、経済的損失の明確なホテルなどの商業上の損失に対して出されたもので近隣住民に対して経済的損失を認めたものは無かった。その意味で今回の判決が画期的であることは、そのとおりである。では何故これまで、景観に対して今回のような判決が出されてこなかったかということを考えてみると、いくつかの問題点が浮かび上がってくる。第一に、景観という問題が非常に経済的価値として数字的に把握しにくいものである事である。個人的主観の問題の部分もあり、物的損害のように明確な基準が無い。
第二の問題は第一の問題とも関連するが、国民のサイドに景観に関する基本的な合意がない事である。丸の内や、国会議事堂の周りの高層ビルにさして多くの国民の声があがってはいない。これまでの多くの景観論争も、あくまで一部の人々に止まっており、国民的な議論に高まってはこなかった。これまでは景観の問題よりも経済の活性化を最優先にしてきた世論が存在してきたのではないか。日照や、眺望は気にしてきたが、街並み景観については比較的無関心できたのではないか。少しでも土地を高度利用して得をしたい。眺望にこだわるのも自分の家からの眺めであって、人から眺められる場合の美醜には頓着しない。そういった身勝手さが、国民の根本にあったといえるのではないか。要するに、私有権と、公共の利益に対するバランスの問題である。日本では、あまりにも私益、私有権を優先させすぎているという事は永く言われ続けてきたが一向に修正される気配が無い。それは煎じ詰めれば、国民が公共に対して不信感を持つと同時に私益にこだわり、変化を望まなかったからであろう。
第三に、日本の文化にも原因があるのかもしれない.日本文化が、縮み文化であり、内向き文化であって、家屋敷を塀で囲み、内なる完成を目指した志向があった。全体ではなく部分にこだわった文化であったからであろう。以上のほかにも、景観に対する世論の盛り上がりの少ない原因は色々あるであろうが、この判決はこれまでの状況を一挙に超えるものであり、単なる経済的損失の補償でなく、景観保全の為にマンションの一部の取り壊しを命じている。景観問題の進展の為には、このような判決の積み重ねが必要なのであろうが、何か少し違うような気がするのである。それは、色々景観問題に国民の関心が高くなっていない理由を述べたが、そのような状況や事情を考えると、景観問題をいきなり司法の問題として、解決や方向付けするには、国民全体の議論や価値観の方向性が出ていない感じがするのである。このまま、司法の手による判断の積み重ねが、国民自身による議論の熟成を待たずに形作られていくのは好ましくないと考えられるのである。この景観問題は、私権の制限という根源的な問題を含む重要な課題である。司法関係者の判断は、既成の価値観の定まったものにのみ適用されるべきで、国民の価値の根本まで司法関係者にゆだねる事は出来ない。
最後に、景観問題の先進国であるフランスの事例を紹介しておく。パリの凱旋門の周辺は、凱旋門を際立たせる為に、周辺の建物の高さとデザインが統一されていた。そこに、あるドイツ人がドーム付きのアストリア館という高い建物を建てたが、パリの保存を主張する団体「古いパリ市委員会」は、建物の取り壊しを命じて、建物は取り壊された。既に100年近く前の事である。このような事例はあるが、現在フランスではもろもろの規制があり、日本のように、景観上問題になるような建物が許可になる事が無いように様々な仕掛けがなされている。日仏景観会議を主催している私共のNPOは、景観問題を市民の問題として捉えていく必要があると考え活動していくつもりであるが、この国立の事例は、快挙として受け止めるのではなく、このような計画を構想の段階で止める為の努力を強く求められているものと理解していかなければならないと感じている。
日刊建設工業新聞 2003年4月7日 専務理事 鈴木啓允